さまざまな人物から、活動の中心にある中2的思想を導き出す連載「私の中2ゴコロ」。第3回は、いま人気急上昇中のアイドルグループ、ゆるめるモ!のプロデューサー・田家大知さん。まったくの素人がなぜアイドルをプロデュースしようと思ったのか? そして、なぜそれを実現できたのか?
著書『ゼロからでも始められるアイドル運営~』(著:大坪ケムタ、田家大知)も話題を集めているアイドル界の異端児に、その真意を探るべくインタビュー。アイドルプロデューサーになるまでと、その後についてのお話を前後編に分けてお届けします。
―著書『ゼロからでも始められるアイドル運営~』が話題になっています。
大坪(ケムタ)さんが書いてくれたので、ぼくはしゃべっただけなんです。すべてがノリで始まったようなことで、これでいいのかと思いつつ。反響に驚いてます(笑)。
―アイドルを作りたいと思うひとは多くても、ふつう実行できない。すごい行動力だなと思うのですが、そもそも田家さんはどんな子どもだったんですか?
中2のころは、サッカー部で部活を頑張っていて。あとバンドを始めたのも中2でした。入り口はブルーハーツ。それから、BOØWY、ZIGGYにいって、ハノイ・ロックス、ガンズ(アンド・ローゼズ)とかハードロックに。そんなルーツですね。将来ミュージシャンになりたいとかは、まったくなかったです。中2から高3までコピーバンドをやってたんですが、ほかの子たちは、やる気があったのに、ぼくはサッカーの試合だったり、練習だったりでなかなか参加できなかった。いちばんやる気がなかったんです。そんな僕が、またバンドを始めて、自分でオリジナル曲を作って、続けている。当時バンドをやっていた人たちは、みんな辞めてしまっているので「お前が続けてるなんて…」とは、よく言われます(笑)。
―大学生のときには世界一周の旅へ行かれたんですよね?
大学4年になったときに、「ああ、大学生活が終わっちゃうから何かダイナミックな事をするなら今だ!」という衝動にかられて、アルバイトしてお金貯めて、世界一周の旅に出ました。バックパッカーとしてはよくあるコースなんですけど、船に乗って中国まで行って、中国からチベットへ、そしてネパール、インド。中東、東欧、そして西ヨーロッパをまわって、初めて飛行機に乗ってアメリカ大陸へ。メキシコまでくだって、南米は行く時間がなかったので、アメリカに戻って、最後ハワイでバカンスして帰ってきました。
ユーゴスラビアでは、不良キッズにボコボコにされました。当時ユーゴスラビアは内戦が終わったばかりで治安がめちゃくちゃ悪くて、銃声がバンバン聞こえるような状態。そのキッズたちは銃を持ってなかったので助かったんですけど、追いかけられて蹴られて血だらけになって。崖があったので自分から飛び降りて逃げました。
ドイツでは病気で入院したのですが、そのときは本当に死にかけて。保険会社の方がビビっちゃって、僕に死なれたら多額の保険金を払わないといけなくなるので、「旅費を出すから日本に戻ってきてくれ」と。でも、ドイツまで来ちゃったから最後まで行きたいですって言ったんです。そしたら、ドイツの病院に治療するようにお願いしてくれて、お医者さんも「お前、旅を続けたいんだろ。だったら、俺に任せろ!」みたいに言ってくれて、一カ月くらい入院しました。
病気はチフスだったんですけど、伝染病なんで個室に隔離されて、40度くらいの熱がずっとでて、そこで幻覚とかを本当にみながら…心細かったですね。シャワーもずっと入れなくて、一カ月ぶりくらいに浴びたときは気持ち良くて感動しました。そのとき、うしろゆびさされ組の「バナナの涙」をずっとテープでもって聞いてたんですけど、シャワーを浴びながら口ずさんでたら、涙がぼろぼろぼろぼろこぼれてきて。そんなこともありましたね(笑)。
―旅から戻ってきて、何か心境の変化などはあったんですか?
世界一周の旅から戻ってきて、あらためてバンドを始めたんです。それまでは、お笑い演劇みたいなものをやっていたのですが、演劇って関わる人も多いし、公演前の二カ月は練習しなくちゃいけなくて、フットワークが重いというか、“衝動的”じゃないなと感じてたんです。もっと、少人数でやってみたいなと。
世界一周のときにいろいろなミュージシャンと出会ったりして、ベルリンではアタリ・ティーンエイジ・ライオットのアレック・エンパイアと遊んだりとか(笑)。そんな感じでいろいろなミュージシャンと出会ったりしてるうちに、音楽やってる若者ってカッコいいなと。自分も音楽が好きだったので、日本に戻ったら自分で曲を作ってみようかなと思ったんですね。なので、帰国したら自分で鬼のように宅録で曲を作るようになりました。
―バンドを始めて、就職は?
就職については、もともと親が文章で食べている人だったので、あまりほかの職業を知らないというか、特殊なんですけど…。なので、普通の会社員になるとは考えてませんでした。もちろん良いところがあれば就職したいとは思ったんですが、ぼくみたいなひとをとってくれるところはなく、小さな編集プロダクションに入りました。でも、忙しすぎてバンドに集中できないのですぐ辞めて、フリーのライターになりました。
―現在もライターをしながらアイドルをプロデュースしている。
でも前から気づいていたんですけど、ぼくはそういう人間じゃないというか、向いてないというか…。文章を書いてみても、論理的な文章が書けなくて、このままやっていけないよなと思っていて。だから、ライターではありますけど、本当に生活のためにやっているという感じです。
バンドの方は、音楽の内容が時代を先取りし過ぎていたのか(笑)、華がなかったのか、歌がうまくなかったってのもあるんですけど、あまり売れず…。存在はしているんですけど。今ではそのバンドのメンバーでゆるめるモ!の曲を作ったりしてて、それも含めてバンドの活動かなと思ってます。
ぼくらみたいなむさいおっさんが歌うよりも、若い女の子が歌った方が届くキャパが全然違うんです。その頃のバンドの曲も、ゆるめるモ!ではいくつかあります。「ゆるめるモん」とか「なつ おん ぶる ー」とかは、完全にアレンジを変えて、歌詞も女の子っぽくしてとか。だから、売れないバンドをやってた年月はムダにならなくてよかったなあと思ってますね(笑)。つづく
次回後編では、アイドルプロデューサーになってから、そしてゆるめるモ!のこれからについてお届けします。お楽しみに!
<PROFILE>
田家大知 Taichi Take
ニューウェーブアイドル・ゆるめるモ!のプロデューサー。近著に『ゼロからでも始められるアイドル運営 楽曲制作からライブ物販まで素人でもできる!』 (コア新書:大坪ケムタ、田家大知著)。ゆるめるモ!は1stアルバム「Unforgettable Final Odyssey」を発売中。そして、8/9(土)にはリキッドルームでワンマンライブを開催する。http://ylmlm.net/
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